私とじーは呼ばれた個室へ入る。4つの椅子とホワイトボードがあった。そのボードには数枚のレントゲン写真が貼ってあった。
担当医はかぁ~ちゃんの病状を説明し始めたが、言葉が難しすぎてさっぱり意味が分からない。イラつく。手術してガンを取れるのか、取れないのかどうかが聞きたい。
担当医はこう説明した「今、抗がん剤を数回入れましたが、正直難しい状況です。ガン細胞はリンパへも転移し、しかも進行が速いです。手術しても全て取り除くのは難しいと思います。ただ最善をつくします」と。。。
私は横にいるじーを見た。顔色は青く、手は震えていた。その手で同意書にサインをした。するしかないよね・・・サイン・・・
かぁ~ちゃんにはすでに説明済かどうか分からない。でも病室に戻ると恥ずかしそうに髪をいじるかぁ~ちゃんがいた。
「髪の毛がすごい抜ける。いっそスポーツ刈りにでもしようかね。なんかいい帽子でも買ってきてよ」と言ったかぁ~ちゃんの枕のまわりは髪の毛だらけだった。。。
しばらくして、1週間の退院許可が出た。
仕事から戻ると家にかぁ~ちゃんがいる。今まではごく当たり前の事がものすごく嬉しく感じた。かぁ~ちゃんが家にいるだけで家のあらゆる物に色が付く気がした。ただ心のどこかで、もうこんな日々は戻らないのではないのか、怖い。。。それを考えると怖い。。だから考えないようにして1日1日を大事に過ごした。
またかぁ~ちゃんも同じ気持ちだったのだろう。1階のお仏壇が置いてある部屋で寝ていたかぁ~ちゃん。ある日私の仕事が休みで家にいる時かぁ~ちゃんが泣きながら言った。
「やっぱり家がいいね。病院へ帰りたくないよ。このまま家で死にたいよ。たくさんの機械や管につながれるのは嫌だ。家がいいよ」
私はどう答えていいか分からなかった。心の中では家にいてほしい。家にいながら治療ができるならそうして欲しい。でも私が答えた言葉は・・・
「そんな事言わずに、病院に戻ってちゃんと治療してまた家に戻れるようにした方がいいよ」だった。
管つけになるのは目に見えていた。それでも私は心のどこかで手術で、薬でなんとか生き延びることができるのではないかって期待していたのかしれない。でもそれって家族側の思いなのかなぁ・・・かぁ~ちゃんは嫌なんだろうなぁ。ましてや今まで数百人と管つけになる患者さんを見てきているわけだし。どんな薬を打たれているって自分ですぐに分かっちゃうんだろうし。
かぁ~ちゃんのピンクの手帳には飲んだ薬の種類や量、検査内容、症状などが毎日メモってあった。
だから自分がどの程度進行しているのか理解していたんじゃないかなぁ。そんな事一度も話したことないなぁ。きっとじーとは色々話していたんだと思う。私と話すことは「仕事どう?」「あれが食べたいなぁ」「病院飯は美味しくない」とかこんな感じだったなぁ。
一時退院も終わり、また自分の職場でもある病院へ戻って行ったかぁ~ちゃん。本当は戻ってほしくない。。。でも戻るしかない!?のか。本当にそれが正しかったのか。きっとじーとたくさん相談して出した答えだと思う。在宅医療の事も話している記憶があるけど、それを選ばなかった。分からない。何が良かったのか分からないなぁ。
そして手術当日。手術室の前でじーがややふっくらとした茶封筒を医者に渡した。私はすぐにピンときた。「金だ!」と・・家にその封筒あった。中身は見ていないがあの感じは金だ。しかも受取りやがった。そんな世界なんだと学んだ(証拠はありません。ただの推測ですよ) それでもなんでも、私たちはその封筒に最大の願いを込めた。
結果はお腹を開いて閉じただけだった。すでにあちこちに転移をしていて手の施しようがないって。取れるものだけ取ったって。後はもう閉じるしかなかったって。
じゃ無駄に切らなきゃよかったのに。痛みだけが残ったんじゃん。。。医者に文句言っても仕方がない。分かっちゃいる。でも私たちは医者に頼るしかない。その医者がインオペって判断したんだからそれを信用するしかない。分かっちゃいる。何を言っても、どう叫んでもどうにもならないのは。。。
あの時、ドクターXはいなかった。。。
それから、かぁ~ちゃんの状態はどんどん悪くなっていった。。。
お腹がみるみるうちに大きく膨らみ、まるで妊婦さんだった。お腹に水が溜まり始めていた・・・
なんとか無理を言って、一時退院許可をもらった。これが本当に最後の一時退院だった。。。
ここまで書けた。スムーズに書けてるってことは、私の中で何かが変わったんだろう!
切ねーなー
泣けてくるよ。。。
うちの母も病気ではないけどさ、父親亡くしてから、自力で歩けとるけどさ、おばあちゃんだもんな。。。
そんな日が来るのは分かってるけど。。。
元気なうちに沢山顔見て、話してあげなきゃなー そんで近くにいてあげないとなぁと改めて想った。。。